無縁仏でいいという選択  墓も、墓じまいも、遺骨も要らない/島田裕巳

 長寿社会が変えた日本人の死生観を考察した一冊。平均寿命の延伸により多くの人が天寿を全うするようになり、死は必ずしも惜しむべきものではなくなった。

 人生の時間が長くなったことで生き方も変わり、死後の扱い方も変化してきた。そもそも現在の葬式や墓のあり方は長い伝統を持つものではなく、近年は家族葬が増え、孤独死・無縁死、無縁墓の増加や高額な離檀料が問題化し、人々は葬式と墓と遺骨を持て余すようになってきた。

 著者は「子供や孫が自分や先祖を供養する必要などない」と指摘。バチは誰にも当たらず、これまでのような追善供養は必要なく、これは無責任ではなく、自然の道理だという。

 仏教式の葬式は時代にそぐわず面倒で、寺や僧侶の経済的都合から生まれたものに過ぎない。葬式の主役は故人ではなく導師になっている、と批判しています。

 墓についても、檀家意識のない者にまで強制されてきた歴史を明らかにし、先祖が勝手に建てた墓を子孫が守る義務はないと主張。墓じまいも不要で、放置して無縁墓となるに任せてよいとしています。

 遺骨の扱いについても、海洋散骨は骨が溶けず自然に還らない問題があるため、火葬後に遺骨を一切引き取らない「0葬」を提唱。火葬場に処理を任せれば墓も安置場所も不要になり、負担から完全に解放されるという。

 最終的に「誰もが野垂れ死に」であり、現代の孤独死も一人でよく生きた証だと位置づけます。

 多死社会を前に、葬式仏教や墓文化から脱し、無縁仏でいいという選択を正面から認める時代が来ているという感じの内容になっています。

 私や私の周りを含めて、墓の維持管理、遺族の負担のあり方やこれからはたして継続できるのかなど、そんなことを思っている人はたくさんいることでしょう。

 一生独身の方もいれば、配偶者もいなければ、子供もいない。そんな人達がむかしに比べてどんどん多くなっている現実があります。

 死んで火葬してもらいそれで完結出来るなら。自分の祖先も敬うことをしなくて済むのなら。少なくとも残された人達には迷惑はかからないのではないか。そんなことを感じさせてくれる本書でありました。

 最近、親しい友人が突然亡くなりました。顔を見に行きましたが、とても信じられず、頬に手を当ててみましたが、すっかり冷たくなっていて、現実を思い知り涙をおさえることができませんでした。

 前述した「多くの人が天寿を全うする」に比べれば明らかに早すぎる死です。悲しいけれど、いつ自分もそうなってもおかしくなければ、いつ身の回りにそんなことがあってもおかしくないのではないか。

 そんなことを思いつつ、友人の生きた証をいろいろな人に語り、いつまでも彼のことを忘れず、最後のお別れに臨もうと思います。心から御冥福をお祈りします。

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