歴史発想源 〜富国の仁術・帝都復興篇〜 /後藤新平の章 「ビジネス発想源」/ 弘中勝

東京市長、満州鉄道総裁、台湾総督府長官など。

重役を担いそれぞれ今も残る都市計画を

実行させた稀代の政治家後藤新平。

ほぼ未開の地であった日清戦争後の台湾、日露戦争後の満洲の開拓を手掛け、

日本の鉄道、郵便制度、NHK、ボーイスカウトなど多くの制度の確立に尽力し、

我が国の衛生行政・都市計画の基礎を作り上げた。

常に未来を見据えた計画と実行、その先見性と遂行力はお見事です。笑

先日、石原慎太郎が田中角栄を一人称で描いた「天才」を読みとても感銘を受けましたが、後藤新平は、田中角栄のはるか上を行っていると言っても、言い過ぎではないでしょう。笑

本書で書いてあった、印象的なエピソードを紹介します。

「虎ノ門事件」

昭和天皇が皇太子時代に暗殺未遂にあった事件。

責任を取って内閣総辞職。

その中に次は総理大臣かと言われた、

内務大臣だった後藤新平もいた。

内務大臣の管轄だった警察。

その中にも即刻クビになった警務部長がいた。

その男の名は「正力松太郎」

読売新聞社社主、日本テレビ放送網代表取締役社長、読売テレビ会長を歴任。また、読売ジャイアンツ創立者であり初代オーナー。

松太郎は自分の至らなさにより、更迭された新平に詫びを入れに行ったという。

新平は「君に1万円やるから、海外に出て見聞でも広げるがいい。」そんな風に言われたが、申し訳無さから断ったという。

しかし、3週間後再び新平を訪ねた。

関東大震災で倒産寸前の新聞社を買収する。10万円貸して欲しい。

「分かった。2週間後ぐらいには10万円を用意しよう。ただし、俺が金を出したとは他人に決して言うなよ。経営がうまくいかなかったら金は捨てていいし、俺に返す必要もないからな。やるからには、心してやれ」

新平が二つ返事で用意した10万円で、正力松太郎は経営難の新聞社を買収することができた。松太郎は新平の恩に報いるべく猛烈に働き、当時わずか2万部程度の発行部数だったその中小新聞社を、やがて世界有数の大新聞社に育て上げていく。

 松太郎はその後も、読売ジャイアンツを作って「日本プロ野球界の父」、日本テレビを始めて「テレビ放送の父」などと呼ばれ、日本のメディア王としてその名を馳せていく。

新平は、かつて台湾や満州で通信インフラを築いた経験から、メディア事業がこれからの時代の先端の長者になるという確信があった。情報発信こそが、世の中の根幹になるであろう、ということを見抜いており、新聞に目をつけた松太郎を全力で応援する気になった。

メディア時代を見通す後藤新平の眼力から、日本初めてのラジオ放送の実現に向けて東京放送局が設立された際には、新平はその初代総裁に迎えられた。

松太郎は、新平が用立てしてくれた10万円は、一体どこの経済人に立て替えてもらったのだろうとずっと不思議に思っていたが、新平の死後、関係者たちからその真実を聞いて驚いた。

新平は松太郎が10万円を借りに行ってわずか2週間後にその大金を用意したが、その間、麻布にある自分の屋敷を担保に入れて何とか工面したお金だったという。

その苦労を全く見せず、またこのことを人に言うべからずと願っていた。松太郎はそれを聞いて、止めどなく号泣。そして、生前の新平の懇意に報いるべく、13回忌にあたる昭和16年、新平から借り受けた倍額の20万円を、故郷の岩手県水沢に寄付。

その寄付によって水沢に建てられたのが「後藤伯記念公民館」だという。

虎ノ門事件は1923年。昭和16年は1941年。

「正力松太郎18年後の倍返し」

なかなかいい話ではないか。笑

後藤新平関連2冊目ですが、ネタが多すぎて驚愕です。笑

​​​​​​​​04 th in February / 30 th in 2023