占領期日本 三つの闇 検閲・公職追放・疑獄 / 斉藤勝久

 言論の自由を保障する新憲法下の日本で、GHQは、郵便・新聞・放送に検閲を行い占領政策への批判を封じた。GHQはさらに民主化の名のもと、職業軍人だけでなく、政治家、言論人、経済人ら21万人を公職から追放したという。

 そんな中、復興利権をめぐりGHQ幹部も巻き込んだ贈収賄事件が起こり、内閣が倒れ、政治はますます混乱を極めた。日本人が敗戦国の屈辱と悲哀を味わわされた占領期。現在もも続く「対米従属」のルーツでありながら忘れ去られようとしている、日米関係の「不都合な7年間」が、とても詳しく描かれています。

 GHQの占領期、検閲が行われていたのは、もちろんして知ってましたが、これほど多くの人が、公職追放(パージ)されていたとは、思いもよらなかった。

 名前を聞いたことがある人が、何人かいたのでせっかくなので、メモしておこうと思います。

 鳩山由紀夫の祖父にあたる鳩山一郎。統帥権干犯問題を発生させて軍部の暴走を招いたことによる。1946年に追放、1951年に追放解除。1954年、内閣総理大臣。「統帥権干犯問題」とは、1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約締結を巡り、軍令機関(海軍軍令部)の反対を押し切って条約調印を決定した浜口雄幸内閣が、天皇の「統帥権」(軍隊の最高指揮権)を侵害したとされた問題のこと。この問題は、軍部の政治介入を招き、後の軍国主義へとつながる一因となった。

 河野太郎の祖父にあたる河野一郎。朝日新聞記者を経て政治家。1942年の翼賛選挙では非推薦で立候補して当選。1945年の日本自由党の結成に参加。第1次吉田内閣の成立直後に追放。1951年に追放解除。のち衆議院議員に復帰、農林大臣。戦時中は翼賛政治体制協議会常任委員を務めていたため、公職追放の対象となった。

 公職追放になった最初の女性だった市川房枝。婦人運動家、参議院議員。戦時中に大日本報国言論会の理事であったとの理由により1947年に追放。1950年、追放解除。市川房枝さんは名前は知っていて、「女性の地位向上」的なものに尽力した人という程度の認識しかありませんでしたが、何も知らないので、なにか関係書籍でも読んでみようと思います。

 最近も関税協議などで、アメリカに振り回されている。あまり、報道はされないが何でもアメリカのいうことを聞いている。その原点がここにあるのではないか。そんなことをとても考えさせてくれる本書でありました。

 なにか締めの言葉を考えようと「アメリカ いいなり 日本」で検索したら、共産党のホームページに「しんぶん赤旗」で紹介したQ&Aがのっていた。とても的を得ていたので、コピペしてやめようと思います。(笑)

〈問い〉 最近のイラク問題での対応といい、日本政府はなぜ、ここまでアメリカいいなりなのですか。(大阪・一読者)

〈答え〉 日本政府の異常なアメリカいいなり姿勢には理由があります。一つは、日米安保条約の仕組みに縛られていることです。第二次世界大戦後、日本を占領したアメリカは、政治家・官僚・財界人などを協力者として育成し、1951年のサンフランシスコ条約と安保条約で、制度としても対日支配を固めました。60年に改定された安保条約にも日本全土どこにでも米軍基地を置かせる。米軍との共同対処や軍拡を義務づける。米国との経済政策の「くい違い」除去や「経済的協力」も義務づける─など、日本を軍事・外交から内政・経済まで米の戦略下においています。

 二つめは、安保条約によるこの仕組みを、日本の支配層が進んで受け入れてきたことです。日本の支配層は、侵略戦争を反省し謝罪するなど各国と真の信頼関係を築く努力は怠り、専らアメリカの「核とドルの傘」に頼ることで資源・技術・販売市場などをアメリカやその同盟国に求め、独占資本を急速に復活・強化させました。コメ・農業切り捨てや大型公共事業などを迫るアメリカの「外圧」も、財界に都合のよい国民犠牲政策を強行する材料としてきました。

 三つめに、識者も指摘していることですが、日本の支配層は長い従属関係を通じて、国民よりも時々の米当局者の意向に最大の関心を払い、その「評価」に一喜一憂するのが習性となったことです。小泉首相が「(米に)しっぽを振りちぎれるくらい振っているといわれる」と自慢するなどは、その一例です。最近は安保のもとで育った「独立を知らない政治家」たちが自民党の多くを占め、安保と矛盾する日本国憲法を「戦後の呪縛(じゅばく)」(安倍晋三幹事長)と敵視し、アメリカの要求にこたえて「2005年に憲法改正に大きく踏み出す」ことを政権公約にかかげるにいたっています。(博)〔2003/11/1)