原発難民 放射能雲の下で何が起きたのか/烏賀陽 弘道

2012年3月12日。双葉町井戸川町長。

双葉厚生病院の老人施設。

最後に残った人達をバスを乗せるため

陣頭指揮していたとき「ドン」と低い音が響く。

福島第一原発1号機水素爆発。

「とうとうやってしまった」そう感じたという。

5分ほどして、断熱材の様な大きなものは5センチ程度。

ぼたん雪のようにふわふわと降って来たという。

その場には沢山の人達。ドクター、看護師、患者。

しばらく鼻血が止まらず、体毛が大分抜け落ちたという。

これからの人生。

体調が崩れるたびに「あのときの影響では無いか」

怯えなければならない。そんな風に嘆く。

避難先で受ける「差別」「イジメ」「摩擦」

それは同じ避難者同士も同様。

故郷を愛することは同じなのに、

「帰りたい」と「帰りたくない」で分断する。

2012年11月発刊の本書。

避難区域に一時帰宅する人に「手伝い」という形で入り

描写される街並み。

1年ちょっとでこれほど街が変わるものなのか。

生い茂る草木。津波を受けたままの風景。

一体10年たった現在はどんな風景なのか。

そんなことを考えさせられる。

強制避難をさせられる20km圏外の人達。

お金をもらえる線引の外にいる境遇、その苦闘。

すぐ逃げた新聞記者たち。

朝日に至っては政府の指示より更に遠くに避難したのだと言う。

新聞記者が戻って来たときは嬉しかった。

そんな記述があり。

先日読了した「河北新報のいちばん長い日」を思い出す。

宮古市内は津波が来た瞬間が最悪状態で、

それから日々復興していき、現在津波の痕跡を探すのは難しい程です。

3月12日。あの日、見た宮古市内の状況。

市民が全員どこかに避難して

何も手を付けずに10年放置していたら。

きっと街は野生化しているだろう。

津波が運んだ土砂から草木は成長し、

道路も何もかも人が歩けないようなジャングルになっているだろう。

そんな現実が福島には存在する。

復興はほぼ終わりつつある岩手。

終わる目処すらたてれない福島。

原発関連の本を読むたびに思いますが、

そんなコントロールできない代物が

現在20箇所近くもある日本。

本当に大丈夫なのだろうか。

大変勉強になりました。笑

だいすけ@190dai.com
新しモノ好き。ガジェット大好き。 平成元年から小さい建設会社。今は社長です。小さい会社なので、営業的なことや技術的なこと。除雪もします。ガジェット、カメラ好きが講じ、ネットやPC、Drone好き。外食する時や夜の会合なども多いので、食べ歩きやガジェット。仕事のこと。読書。そして地元のコトを中心に書いて行こうと思います。
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