なぜ難民を受け入れるのか─人道と国益の交差点 / 橋本直子

 難民とは国で紛争が起きた人が、国内では危ないので海外に逃げる。そんな印象しかなかった。本書を読んで感じたことは、自分が「難民」について全然知らないという事実です。最近ではウクライナから日本に来ている人がいるのは、報道などで知っているが、そもそも難民の定義など考えたこともなかった。

 難民とは、人種や宗教、国籍、政治的意見、特定の社会集団に属するという理由で、自国で迫害を受けるおそれがあるため他国に逃れ、国際的保護を必要とする人々を指すという。「迫害」というキーワードをとても多用していたが、それから判断すると、ウクライナからの難民は該当しない部分があるという。

 日本では「難民」と聞くと「ネットカフェ難民」「買い物難民」「介護難民」など、全く関係のない単語を付けて造語を作り、使い続け流布することで、本当の難民の人々が経て来た極限的体験を茶化すような効果まであるように感じ危機感を感じているという。

 日本に自力で辿り着く難民や庇護申請者の数は年間最大で2万人程度と、世界的に比較すれば極めて少数だという。幸いなことに大量の日本人難民を流出させるような事態は、まだ日本国内では起きていない。

 しかし、東日本大震災における福島原子力発電所の事故の影響で他の地域に引っ越さざるを得なかった福島出身の人が国内で差別的な扱いを受けたり、外国出身の配偶者との間に生まれたお子さんの外見が若干他の日本人とは異なるという理由でいじめられたり、性暴力被害を訴えたことで逆に社会的に厳しく批判されたり、日本国内にも差別や人権侵害が日常的に起こっている。

 そのような人たちの中には、残念ながら日本で暮らしていけず他国に逃れざるを得なかった方も実際にいる。著しい人権侵害を受けること自体が極限的経験だがが、その上祖国を離れ、愛する家族や友人と離れ離れにならないといけない境遇は、誰にとっても非常に辛く悲しい。

「〇〇難民」という造語はそのような人々の境遇と心境を茶化し、からかい、嘲笑する意味合いに捉えられる恐れがある。まずは本来の「難民」の意味を知り、彼らの状況を想像することからはじめて欲しいと著者はいう。

 私は人生56年生きて来て難民という人に、1人しかあったことがない。忘れもしない鮮明な記憶を持っています。小学校6年生のとき、盛岡市内のサッカー大会というのがあり、対戦相手にベトナムから来た難民だという、◯◯くんという、とびきり上手な選手がいた。ちゃんと庇護認定を受けているかどうかは、今となっては定かではないが、みんなが「ベトナムから来た難民」だと言っていた。

 44年前なのに、彼のフルネームを今でも覚えている。私は2列目のセンターだったので、1列目のセンターだった◯◯くんを、マンマークディフェンスするように先生に言われたが、そんな練習はしていなかったので、なんという無茶ぶりだろう。そんな風に思ったことさえ覚えています。先生の名前も覚えている。宇部先生だった。知り合いの「宇部」を思い浮かべ、宇部ならそんなことを言いそうだとふと思う。笑

 私は「外国人実習生」に関する、たくさんの本を読みましたが、この制度は「現代の奴隷制度」ではないかと国連から勧告されていることを知りました。私も建設業を経営するものとして外国人実習生は身近に接し業界人と話した時話題になる時はおおい。

 日本は難民を受け入れないが、難民を受け入れている国に援助はする。そんなスタンスをとっている。同じお金を掛けるなら、難民を受け入れることも選択肢に入れても良いのではないか。少なくとも「外国人実習生制度」が国際的に非難されているという事実を思い出すことが出来た一冊でありました。

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