吉田茂の見た夢 独立心なくして国家なし / 北康利

 吉田茂1878年(明治11年)9月22日生まれ。私の妻と同じ誕生日だ。実はボブサップも同じ誕生日です。笑

 亡くなったのは、1967年(昭和42年)は私の生まれる1年前です。もちろん、名前は知っていますが先日、白洲次郎の本を読んだので、気になって手にとってみました。

 内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)、外務大臣(第73・74・75・78・79代)、農林大臣(第5代)、第一復員大臣(第2代)、第二復員大臣(第2代)、衆議院議員(7期)、貴族院議員(勅選議員)、皇學館大学総長(初代)、二松学舎大学舎長(第5代)を歴任。輝かしいキャリアです、

 優れた政治感覚と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立て、戦後日本の礎を築いたと言われています。ふくよかな風貌と、葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」とも呼ばれたらしい。

 私の年代では「吉田茂」と聞くと、麻生太郎のおじいちゃんと思い浮かべる人が多いだろう。そんな、吉田茂と孫の麻生太郎のエピソードが綴られていた。

 太郎が学習院初等科の頃、こんなこともあった。まだ授業中だというのに、「家の人がお迎えに来られています」 と告げられて校門へ行ってみると、吉田がにこにこしながら待っている。そしていきなり「落語を聞きに行こう!」と言い出した。

 目を丸くしている太郎を強引に早退させると、上野の鈴本演芸場へ連れて行った。吉田がひいきにしている春風亭柳橋が出ているからである。彼のような真打中の真打はたいていトリとして登場する。

 この時間になると、しっかり最後まで授業を受けてから駆け付けた小学生の姿もちらほら見られるようになっていた。そこで柳橋は話のまくら代わりに、「坊ちゃん、落語は好きかい?」 と客席にいた子供の一人に聞いてきた。

   わざわざ落語を聞きに来ている子が「嫌い」と答える道理もない。「うん、好きだよ」 と答えると、柳橋は上機嫌で、「そうかい落語が好きな子は偉くなるよ。吉田首相も落語が大好きなんだよ」と言って笑いをとった。

  その瞬間、太郎と並んで座っていた吉田が突然、「おおい、ここにおるぞ!」 と声を張り上げたのだ。 客席全員の視線が集まる。太郎は身の縮む思いだった。

 この時は護衛が一人しかついていなかった。高座が引けた後、彼から真剣な顔で「総理、お願いですから目立つことはお控えください」 と懇願された。

 麻生太郎が国会の答弁で「カップラーメン」の値段を問われ、突拍子もない価格を言ってマスコミに叩かれた時があった。

 私はそんなことを知らなくても、国政をちゃんとコントロールできれば問題ないとは思っていましたが、執拗に麻生を叩き続ける。そんなマスコミに嫌悪感を抱いたのを思い出させてくれました。笑

12月6冊目_2024年221冊目