歴史発想源 〜優婉の開花・女子教育篇〜 津田梅子の章 / 弘中勝


 来月から新札になります。渋沢栄一、北里柴三郎はだいたいどんな人か知っていますが、ぶっちゃけ津田梅子について、ほとんど知らないので、少し勉強してみようと手にとって見ました。

 梅子の父は伊藤博文の通訳仲間だったらしく、岩倉具視が使節団を海外に送るときに、女の人もいれた方がいいという話になった。父に勧められアメリカにいくことになりました。その時、梅子はなんと7歳。父は最初姉に勧めたが断られたので、妹の梅子になったらしい。

 その時、5人の女の子がアメリカにいくんですが、14歳が2人、11歳、8歳、7歳という構成で、なんとも若い。11歳の女の子は「山川さき」というんですが、「捨てたつもりだが待っている」という意味を込めて「捨松(すてまつ)」と親が改名します。いかに海外に女の子が留学するのは、とんでもないことだったというエピソードです。

 渡米後、最初は和服で動いていたがあまりにも目立つので、洋服を用意してもらいそれを着た。付随してブラジャーもよこされたので付けたらしいが、服飾史でも最初にプラジャーを付けた日本人として記録されているらしい。笑

 そしてすぐに14歳の2人は精神的におかしくなって帰国。残された、11歳、8歳、7歳の3人。寂しさでいつも夜な夜なくっちゃべっていたら、これではだめだと別々にされてしまう。全く日本語を使わない生活になったせいなのでしょうね。11年後、帰国したときには日本語が全く理解できなくなっていて、通訳の父としかコミニュケーションが取れなかったという。笑

 帰国後、勉強したことを生かすことが出来なくて困っていたときに、伊藤博文と再会し家に住み込んで、桃夭女塾で英語を教えながら、伊藤博文の家で家庭教師や通訳をします。

 英語教師として働いていた梅子ですが、花嫁修業のお稽古事の延長のような学生たちの、自ら学ぼうとしない様子に愕然とします。やはりもっと勉強しなくてはならないと奮起して、英語教授の役職はそのままに、2年間の有給休暇をもらって再度アメリカに行くという。2年間の有給休暇をもらう方もすごいが、ける方もすごい。笑

  再びアメリカで「英語学」「歴史学」「生物学」など猛烈に勉強し、後にノーベル生理学・医学賞を受賞したモーガン博士の助手としても研究を行い、日本人女性初となる科学論文を発表したようです。

 「あなたは世界的な科学者になるべきだ」と帰国を強く止められますが、当初の予定を1年延長し、3年間の留学を終え帰国したとのこと。

 そしてなんやかんや色々と苦難の連続で、女子英学塾を立ち上げ、後にそれが津田塾大学となるお話でありました。

 津田塾大学の「津田」は津田梅子の「津田」らしい。実は知りませんでした。笑 更に津田塾大学って小平にあるんですね。私は小平の専門学校に行っていましたが、全然知らなくて自分の無知を改めて認識させられました。笑 せっかくなので、他の津田梅子に関する本も読んでみようと思います。

6月12冊目_2024年127冊目