著者は1985年に第1次UWFでデビューし、
その後第2次UWFの旗揚げに参加。
解散の一因とされる選手間の結束の問題で異を唱えた。
その後、高田延彦を中心としたUWFインターナショナルの旗揚げに参加。裏方として画期的なプロモーションや、強豪外国人レスラーの発掘などで活躍。
1995年にUインターを退団して引退し、料理人を目指して周富徳に弟子入りしていたが、再会したルー・テーズに再燃したプロレスへの情熱をきっかけに、1999年にジム「U.W.F.スネークピットジャパン」を設立して代表に就任、後進の指導にあたっているという。
宮戸が中学時代に前田日明と出会い、その後も佐山サトルとも出会い、入門テストを受けないまま、プロレスラーとしてのキャリアをスタート。
ヨーロッパ遠征前の前田との濃密な関係性や、
UWFの立ち上げ、UWFインターナショナルの活躍、
安生洋二のグレイシー道場破り事件の裏側、
新日本プロレスとの対抗戦に反対し、倒産を革新していたエピソードなどが書かれています。引退後に料理人を目指し、周富徳の店で修行中、そこに度々訪れる桜庭和志や田村潔司。再びプロレスに情熱を注ぐようになった経緯や、現在は後進の指導者として活躍している様子も紹介されています。
プロレス、格闘技好きにはたまらない1冊です。
それも、ライターさんが取材して書いているものではなく、内部にいた人が、自分の体験とその時感じていた葛藤など。とても生々しく感じさせてくれる内容でありました。
Wikipediaには「安生の道場破り」についてこのように書いてある。
1994年、UWFインターナショナルに所属していた安生洋二は、ロサンゼルスのヒクソン・グレイシー柔術アカデミーに道場破りに行き、ヒクソン・グレイシーに挑戦。しかし、失敗しパウンドを浴び、チョークスリーパーで失神させられた。この行動は、UWFインター側がヒクソンを挑発するために行った外交交渉の意味合いがあった。この事件によりUWFインターは業界で大きな注目を集め、後にPRIDE(ヒクソンvs高田延彦戦)が企画されるきっかけにもなった。
本書はではこんな感じに書かれている。
宮戸本人もロサンゼルスに行こうとしていたが、自信過剰な安生が一人で行くと言い張った。UWFインターの経営が悪化していたため、旅費をケチられていたこともあったという。2週間滞在予定で最初の1週間は時差ボケも含めた体を調整し、2週間目に道場に行く予定だった。緻密な打合せをしてから送り出されたが、盾になるため送り込んだ報道陣に乗せられ、渡米直後に道場入り。報道陣をシャットアウトされ、単独で道場入り。正当防衛で殺されても文句が言えない状況だと、安生に罵声を浴びせたと言う。
私の思っていた印象とは全然違い、緻密な計画があったようです。(笑)高田vsヒクソン戦に関しては、ヒクソンは最強と言うより、ヒクソンは勝てるタイミングを見極めるのがうまいのだという。
更に、ヒクソン戦に向けて自分が関与できなかった、高田への周りのサポートが悪すぎたという。高田はおだてて乗せなければならないのに「あれをしてはダメ」という、マイナス面の要素ばかりで、仕上がっていたという。
『シン・日本プロレス: すべてはここから始まった、総合格闘技の源流と末流 / 前田日明 (著), 片田直久 (著)』に書いてあった、前田がヒクソン線前に高田とやり取りしたエピソードを思いだす。笑
久々にプロレス関連を読みましたが、色々な事が繋がって面白いですね。本書によく出てくる「ビル・ロビンソン」や「ルー・テーズ」も勉強してみましょうね。笑
13 th in March / 62 th in 2023